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「カルカッタ発 ニューヨーク行き 1989/1999」No.74

カトマンズ2.jpg

カトマンドゥの街角


「インドへ帰れ」

1989/10/18
使命のようにインドに帰れという声が聞こえる。今日も一日カトマンドゥの刺激のない日がすぎてゆく。それはそれでいいのだろうがあまりにも平和すぎる。ヨーロッパ観光客がつくった街カトマンドゥ。外人が決して珍しくない街。インドのように突き刺さる視線を感じない。貧しいという他日本との違いが見つからない。どことなしに犬も牛もきれいだ。夢は短い狂気、狂気は長い夢....。

つづく

「カルカッタ発 ニューヨーク行き 1989/1999」No.73

「カトマンズのカフェ

カトマンズのカフェは、ヨーロッパ人のヒッピーが多く、ピンクフロイドやイエス、キング・クリムゾンなどのプログレが中心に流れていて、まるで60年〜70年代にタイムスリップしたかのようである。10CCを聴きながら日本の友人に手紙を書いていて、ふと壁を見るとなにやら掲示板のようになっているので観察していると、カトマンズからアムステルダムやパリ、ミュンヘンなどヨーッパ各地へのバス旅行ツアーの案内が貼ってある。
「そうか、ユーラシア大陸で繋がっているから、彼ら彼女らは皆バスでカトマンズまで来ているんだ。」と思わずつぶやいてしまう程、あたりまえの現実に驚くのである。

つづく

「カルカッタ発 ニューヨーク行き 1989/1999」No.72

「インド映画ダンスダンスを観る」

T君が静養している事もあって、私はシャカロッジの従業員カリキーという名の
同世代の若者と行動を共にするようになった。
ある日、カリキーとその友人ドゥルゥバーと三人でインド映画を観に行く事となった。
タイトルは「ダンスダンス」。
ダンサーの子として生まれた姉弟が血はあらそえずダンサーとして成功するというサクセスストーリーだが、やがて、恋の苦労とかがあり落ちぶれてしまう。
そうした姉弟の前に死んだはずの母親が姿を現す...。
単純なストーリーだが、観客を見ている方が楽しい。
多分、戦後の日本の映画館もそうだったんではないだろうかというくらい
とにかく騒がしい。
ダンスのシーンでは、皆踊りだすわ、主人公が銃で狙われると「逃げろ逃げろ」と騒ぎだすわで
カリキー達もちょっとビキニの女性が現れるだけで「ヒューヒュー」口笛を鳴らしている。
私たちは二階席で観ていたのだが、一階席はもう大騒ぎである。
今でこそ「ボリウッド」として日本でも人気のある映画もあるが、
当時は今程洗練されているわけでもなく、ダンスのクオリティーの低さに驚いたのである。

つづく

「カルカッタ発 ニューヨーク行き 1989/1999」No.71

「人生最高のスキヤキ定食を食べる

当時カトマンズには、世界中のヒッピーが集まって来ていたが、日本の青年海外協力隊や
ヒマラヤの山々をアタックする登山家などもおり、日本食料理店も数件あった。
インドを放浪して一ヶ月、日本食が恋しくなり「古都」という日本レストランを訪れる。
私は迷わずスキヤキを注文するとご飯、お吸い物、お新香などが着いてきて
久々の日本食を十分に味わいながら食べた。
こんなに美味しいと思ったスキヤキ定食は、未だかつて私の人生の中で一番だったと言える。
T君は可哀想に雑炊を少し食べただけに過ぎなかった。

つづく

「カルカッタ発 ニューヨーク行き 1989/1999」No.70

「ポカラへ」

シャカロッジに泊まっている。T君は苦しそうにずっとベッドに寝ている。
「俺は大丈夫やからポカラでも行ってきたらどうや?」とT君は言う。
「ポカラか?ヒッピーの聖地やな」
しかし、私は苦しんでいるT君をそのままにしてポカラへ行く事は出来なかった。
今考えてもそのときの選択は間違っていなかったと確信できる。
もし、ポカラへ行ってパラダイスでも見つけていたら
私の帰国は大幅に遅れ、今は亡き弟の結婚式はおろか
その後多大なる影響を与えてくれた彼女との出会いもなかったかもしれないのである。
人生とは「縁」。どこでどう転がるかなんて誰にも予測はできないのだから。

つづく

2017年明けましておめでとうございます

2017年賀.jpg


昨年同様HYOTAN-YAMA Projectならびに「新世界はね」を宜しくご愛顧の程お願い致します。
11月には奥本亮さんとニレバンドのバヤンさん達との最高のセッションができましたし、本年は尚一層精進していきますので、宜しくお願い致します。
皆様に於かれましても平安な一年でありますよう心からお祈り致しております。

「カルカッタ発 ニューヨーク行き 1989/1999」No.69

「赤痢なんてここでは風邪のようなものですよ」

ナースの伝言通り我々はフリークストリートに向かい、
その足でトリヴァンユニバーシティーのティーチングホスピタルへ向かう。
日本人のドクターによるとT君の病状はやはりアメーバ赤痢だった。
驚く我々を尻目にドクターは笑みさえ浮かべながら
「赤痢なんてここでは風邪のようなものですよ。帰国はまだまだですよね?」
「いつ帰るか決めてません」
「ここでは風邪のようなものですが、日本にそのまま帰るとえらいことになりますよ。
東京だと検疫からそのまま墨東病院送りになり、新聞でも騒がれるでしょうね。」
「当分帰国しないのであれば今泊まっている宿で療養してください。見ての通り
ここには入院する設備もいいかげんなものですから薬を飲んでとにかく静養してください。」
アメーバ赤痢がただの風邪と一緒にされてしまうなんて
まったくもって、いよいよ地球の果てまで来たんだと言う実感をしたのである。

つづく

「カルカッタ発 ニューヨーク行き 1989/1999」No.68

ナースの伝言」

朝起きるとナースは自分の宿代を精算し書き置きを残してチェックアウトしていた。
「フリークストリート辺りには安宿がたくさんあるので、あなた達も良かったら
来るといいわ。私はその後、ゴアのアンジュナビーチに向かいます。
とても素晴らしいいところだからあなた達も気に入ると思うわ。」と書かれてあった。
「ゴア」なんとも良い響きである。
当時はまだそこがヒッピー達の天国だとも知るよしのない私は「ゴア」という
地名だけを頭に刻み込んだのである。
その数年後自分が行く事となるとは思いもせずに。

つづく

「カルカッタ発 ニューヨーク行き 1989/1999」No.67

「文化度の格差」

部屋に着きようやく落ち着いた頃スエーデン人のナース
「ねえ、ビールを頼まない?」
夜中に3人でフロントのお兄さんを叩き起こし
眠そうな目をしたネパール人がビールを3本手渡してくれた。
夜のしじまの中で様々な話をしたが、印象的だったのが、
彼女は2ヶ月の休暇中で毎年このようにして中近東やインド辺りを
旅しているとの事である。
我々は、一大決心をして会社を辞め放浪の旅に出ているのに
ヨーロッパ人は何とも優雅に休暇でこのような地球の果てまで
旅している事に驚きを隠せなかった。

つづく

「カルカッタ発 ニューヨーク行き 1989/1999」No.66

「3人でルームシェアしない?」

人が谷底に落ちるわパンクはするわで散々なバスの旅は
16時間に及び夜の11時頃カトマンズのバススタンドに到着する。
スエーデン人のナースと我々3人は、バススタンド辺りの宿を探し
ようやくホテル・エバーグリーンにたどり着いたのである。
ところがチェックインの交渉をしていると「高すぎる」と
スエーデン人のナースが言うのである。
「そこで提案なんだけど3人でルームシェアしない?
そしたら安くて安心よ。」とスエーデン人のナース。
こちらは別にかまわないが、五十ばかりといっても女性ひとりと
男ふたりという組み合わせに心配はないのだろうかと思うのが日本人の特性みたいで
この後もなんどか、このような場面に出くわすのである。

つづく

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