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「カルカッタ発 ニューヨーク行き 1989/1999」No.80

「カトマンズの変人」

ここまで読んでくださってありがとうございます。私の楽曲の成り立ちを少しでも皆さんへ理解して頂きたいという思いで備忘録を書き進めて来ました。そして、この「カトマンズの変人」は、このような旅を経て完成しました。当時の写真も織り交ぜておりますので、ご覧になって頂ければ幸いです。


カトマンズの変人/竹村公成

「カルカッタ発 ニューヨーク行き 1989/1999」No.79

「約束の地」

これを書こうかどうか迷ったのだが、私がインドに来る最大の目的であるので書く事にする。この旅の3年前に父は自殺した。電気コードを胸に回して壮絶な最期を遂げたのである。その自殺の道具をガンガーに納める事が私をインドへ駆り立てた最大の要因である。ダサシュワメード・ガートから小舟に乗って対岸の中州へたどり着くとひとりのサドゥーが、まるで全て分かっているとも言いたげに待っており、そっと私の額にビンディーをつけてくれ厳かな儀式の後、私はその電気コードをガンガーに流したのである。私の旅の目的は、この約束の地で果たされたのである。

「カルカッタ発 ニューヨーク行き 1989/1999」No.78

ベナレス.jpg

ダサシュワメード・ガート


1989/10/28
バナラシ(ベナレス)の路地には牛が待ち伏せ人が行き交い上を見上げれば猿がいる。そのなかを葬列が通り過ぎる。突き進めばガンガーにそしてなにやらその気配をする方向に火葬場がある。夕暮れの時間の火葬場はあまりにも強烈で輪廻というものを考えさせられる。生きてゆくものはここで灰になりそして神の世界へ解脱してゆく。目の前の形を消してゆく人の身体が後ろに沈む夕日より強烈に僕の目に焼きつく。

「カルカッタ発 ニューヨーク行き 1989/1999」No.77

「トリムルティーゲストハウス」

無事、インドに再入国した我々にイギリス人のお姉さんが、タクシーをシェアしないかと持ちかけて来る。別に泊まる場所を決めてなかった我々も渡りに船という状態でOKする。ヨギロッジを目指すが満室だったのでトリムルティーゲストハウスへ向かう。ドミトリー(相部屋)が空いていたので泊まる事とする。我々以外は皆西洋人でなんだか引け目を感じてしまうが、これも貴重な体験だと思い下手な英語であれやこれやと会話すると「ガンジス川の夜明けはとてもファンタスティックなので明日の朝は皆で観に行こう」ということになった。

つづく

「カルカッタ発 ニューヨーク行き 1989/1999」No.76

「ヒマラヤの落日」

カトマンズからベナレスまでインド国内航空で飛ぶ。大きく旋回する飛行機から朱色に染まるヒマラヤの落日をを見る。ポカラへも行けなかった私にとってはネパール最大の贈り物だ。その後機体はインドア大陸を目指して降下していくのである。再びインドに入るという事で期待と緊張が入り交じった複雑な心境になるのである。結局、入国の際に約束したボーダーでの写真は反古にしてしまったが、それでもなんとかなるというといい加減さに驚くのである。

つづく

「カルカッタ発 ニューヨーク行き 1989/1999」No.75

「エアチケットを取るのは大変だ」

T君の病状もかなり回復し、ビザの期限も切れかけているので王宮近くのロイヤルネパール航空のオフィスでインドのベナレスへのエアチケットを予約しに行く。しかし、これが大変な作業で
初日は停電があってコンピュータのシステムダウン。翌日来いといわれたので訪れるとまだ復旧していないと笑顔で言われる。ようやく三日目で航空券を手に入れる事ができた。
T君の病状が回復しつつあるといってもあの過酷なバスの旅をするには危険すぎるので飛行機を選んだのである。

つづく

「カルカッタ発 ニューヨーク行き 1989/1999」No.74

カトマンズ2.jpg

カトマンドゥの街角


「インドへ帰れ」

1989/10/18
使命のようにインドに帰れという声が聞こえる。今日も一日カトマンドゥの刺激のない日がすぎてゆく。それはそれでいいのだろうがあまりにも平和すぎる。ヨーロッパの観光客がつくった街カトマンドゥ。外人が決して珍しくない街。インドのように突き刺さる視線を感じない。貧しいという他日本との違いが見つからない。どことなしに犬も牛もきれいだ。夢は短い狂気、狂気は長い夢....。

つづく

「カルカッタ発 ニューヨーク行き 1989/1999」No.73

「カトマンズのカフェ」

カトマンズのカフェは、ヨーロッパ人のヒッピーが多く、ピンク・フロイドやイエス、キング・クリムゾンなどのプログレが中心に流れていて、まるで60年〜70年代にタイムスリップしたかのようである。10CCを聴きながら日本の友人に手紙を書いていて、ふと壁を見るとなにやら掲示板のようになっているので観察していると、カトマンズからアムステルダムやパリ、ミュンヘンなどヨーッパ各地へのバス旅行ツアーの案内が貼ってある。
「そうか、ユーラシア大陸で繋がっているから、彼ら彼女らは皆バスでカトマンズまで来ているんだ。」と思わずつぶやいてしまう程、あたりまえの現実に驚くのである。

つづく

「カルカッタ発 ニューヨーク行き 1989/1999」No.72

「インド映画ダンスダンスを観る」

T君が静養している事もあって、私はシャカロッジの従業員カリキーという名の
同世代の若者と行動を共にするようになった。
ある日、カリキーとその友人ドゥルゥバーと三人でインド映画を観に行く事となった。
タイトルは「ダンスダンス」。
ダンサーの子として生まれた姉弟が血はあらそえずダンサーとして成功するというサクセスストーリーだが、やがて、恋の苦労とかがあり落ちぶれてしまう。
そうした姉弟の前に死んだはずの母親が姿を現す...。
単純なストーリーだが、観客を見ている方が楽しい。
多分、戦後の日本の映画館もそうだったんではないだろうかというくらい
とにかく騒がしい。
ダンスのシーンでは、皆踊りだすわ、主人公が銃で狙われると「逃げろ逃げろ」と騒ぎだすわで
カリキー達もちょっとビキニの女性が現れるだけで「ヒューヒュー」口笛を鳴らしている。
私たちは二階席で観ていたのだが、一階席はもう大騒ぎである。
今でこそ「ボリウッド」として日本でも人気のある映画もあるが、
当時は今程洗練されているわけでもなく、ダンスのクオリティーの低さに驚いたのである。

つづく

「カルカッタ発 ニューヨーク行き 1989/1999」No.71

「人生最高のスキヤキ定食を食べる」

当時カトマンズには、世界中のヒッピーが集まって来ていたが、日本の青年海外協力隊や
ヒマラヤの山々をアタックする登山家などもおり、日本食料理店も数件あった。
インドを放浪して一ヶ月、日本食が恋しくなり「古都」という日本レストランを訪れる。
私は迷わずスキヤキを注文するとご飯、お吸い物、お新香などが着いてきて
久々の日本食を十分に味わいながら食べた。
こんなに美味しいと思ったスキヤキ定食は、未だかつて私の人生の中で一番だったと言える。
T君は可哀想に雑炊を少し食べただけに過ぎなかった。

つづく